先日行ってきたイベントの記録です。
田口ランディさんのお話は、シャーマニズムについてでした。
彼女の周りには作家になる少し前から、霊能者や超能力者の友人が多いようですが、最も印象の強い、力の強い能力者は青森に住む透視能力者の山口藤子さんと、アイヌのシャーマンのアシリ・レラさんだそうです。
今回のトークショウでは特に、アシリ・レラさんについて話されました。
田口ランディさん曰く、
アシリ・レラさんの風貌は肝っ玉母さん。
その中身は、全く邪気のない男の子のようだそうです。
天真爛漫で、何をしでかすか分からない迷惑な友人、といった感じだとか。
アシリ・レラさんとの出会った経緯、アシリ・レラさんが子宮癌を患った話、子宮から摘出した癌が胎児の頭ほどの大きさで、人の髪の毛や、指や、目の破片のようなものが混じった恐ろしい塊だったということなど、彼女に関する様々な逸話を話して下さいましたが、イベントのテーマが五大(火、水、土、風、空)ということもあり、アシリ・レラさんの天候を操る力について主に話して下さいました。
アイヌのシャーマン、アシリ・レラさんは天候を操ることができます。
彼女が出向く地は快晴となり、彼女が祈れば雨が降り、怒れば雷がとどろきます。
田口ランディさんは友人として、彼女とあちこちに旅をし、彼女の周囲で起きる様々な現象を目の当たりにしながら、
「こんなことがあって、たまるかー!」
と、思うそうです。
天候には秩序があって循環がある。個人の意思で、雨が降ったりやんだりしたら、世界がめちゃくちゃになっちゃうじゃないか!
というのが彼女の意見だったそうです。
今でも、不思議な現象を目の当たりにして、どう反応していいかわからず、思考が停止してしまうそうです。
田口ランディさんとアシリ・レラさんがアメリカのアリゾナを一緒に旅した時の話を聴きました。
それは、アメリカン・インディアンのシャーマンなどが集まる集会に出席するための旅だったそうです。そこで知ったのは、アシリ・レラさんが、インディアンのシャーマン達から大変尊敬されているということだそうです。
彼女達がアリゾナに滞在していた時、現地では酷い干ばつで2カ月以上雨が降っていな状態だったそうです。国立公園の中を車で走行中に、レラさんが突然「私はここで雨乞いをしなければいけない」と言ったそうです。
レラさんの「カムイノミ(祈りの儀式)」では必ず火を使用します。そして、国立公園内では山火事予防のため焚き火は厳禁!ということもあって、田口ランディさんは「もし警察に見つかったらどうしよう!」とハラハラしながら、レラさんの儀式を見守ったそうです。
レラさんは火をおこし、日本から持ってきた藁で編んだ輪っかをひとつ、ふたつ、と焚き火にくべていきます。不思議なのは、その煙が輪っかの状態で空に上がっていきます。全く形を崩さず、ドーナツの形状のまま、空に上がっていき、上空にたどり着くと雲にかわるのだそうです。輪っかの形のまま・・・。そして、2個、3個と鎖のように輪っかの雲がつながり、風に流されて飛んで行ったそうです。
「龍が天に上がった、儀式は成功した、明日までには雨が降るだろう」
とレラさんが言い、車に戻ろうと振返った瞬間驚いたのは、周囲のサボテンが花を咲かせ花畑になっていたことだそうです。儀式を始める前は、確かに花は咲いていなかったのに!
そしてアリゾナでは翌日から大雨になり、洪水になるまで降り続けたそうです。
アイヌのシャーマニズムというもの、あるいは他文化のシャーマニズムというものを、我々日本人が理解することはできない、と田口ランディさんは言います。それは私達が、彼らの言葉で世界を見ていないから。
例えば、アイヌ語で「ありがとう」「Thank you」は
「イヤ イラ イケレ」
というそうです。それは直訳すると、「私を殺します」という意味になるそうです。
なぜ、「ありがとう」が「私を殺します」になるのか。
日本語を操る私達にはその世界観を理解することがとても難しいです。
道端に咲く一輪の白い花を見る時、日本人がそこに見るものと感じるものは、アイヌ人が見るもの感じるものと違ってしまう。
アイヌのシャーマンであるアシリ・レラさんが見る世界と、日本人の田口ランディさんが見る世界は全く違う。
だから、彼女の祈りの本質、彼女が見せる数々の不思議な現象、シャーマニズムを理解することが大変難しい。
でも、田口ランディさんが最近気づいたことは
「自在に天候を操ったら、世界がめちゃくちゃになっちゃう!」
と言った自分は、まさに日本人的な自分であったということ。
自分と自然を分けて考えてしまう自分。それが日本人の私。
例えるなら、私はまるで、洗濯機に放り込まれたテニスボール。
水の流れに翻弄されるボール、決して交わらない水とボール。
自然が常に自分の外にある、自然は自分の意識とは無関係の他者。
でも、アシリ・レラさんは例えるなら洗濯機の中の水の粒となる。
彼女と自然の間に明確な区別はない。彼女が祈る時、彼女は自然の一部となり、自然の意思となる。雨が降ることは彼女の意志であり、自然の意思でもある。だから、そこに矛盾はなく、秩序は乱されることはないのだということです。
最近、共存とか共生という言葉をよく聞きます。そんな掛け声が必要な私達は既に、私とあなた、人間と環境を分けて考えているのかもしれません。
わたし、あなた、動物、植物、自然… 言葉という記号を与えられた瞬間にそれらには輪郭が生まれ、境界が生まれ、区別されます。
私たちがレラさんの目で世界を見ることができたら、境界は無くなって、私は全ての一部となり、全ては私の中となるのかもしれません。そしたら、共存とか共生とか考えるまでもなくなるのでしょう。
最近の研究で、アイヌ人と沖縄の人は同じ縄文型であることがわかりました。本州に住んでいる人は、渡来人との混血らしいです。
http://sankei.jp.msn.com/science/news/121101/scn12110108070000-n1.htm
大陸から人が渡ってくる以前に日本に1万年以上住んでいた縄文人は日本人のルーツの一部でもあります。その気の遠くなるほど長い縄文時代、彼らは戦争の痕跡を残していません。彼らの時代が去ってからの、戦争ばかりの人間の歴史を思うと、それがどんなに凄いことだったかと思います。
アシリ・レラさんの世界観に、その平和な時代のヒントがあるのかもしれません。
私の生まれた青森の津軽地方は、中世まで縄文的な生活を続けていた蝦夷の王国があった土地です。さらに私の父に言わせれば、私の家系にはアイヌの血が混じっているとか。
だから私は、アシリ・レラさんの世界に強く惹かれるのでしょうか。
彼女の世界を見ることができたらなぁと強く思いました。
これまで、日本はわりと自由な国だと思っていました。
言論統制とか、情報の隠ぺいとか、余所の国の話だと思っていました。
でも、そうじゃなかったんですね。
既に多くの人がすでに気づいているように、日本のマスコミはちゃんと機能していません。
例えば、311後の福島の事故、金曜日の官邸前の反原発デモ・・・
あらゆる既得権の利己的な思惑のために(マスコミも既得権の一部ですが)、国民の知る権利が大きく損なわれている・・・それが日本の現状だと、ここ数年で思い知りました。
そんな中、インターネットの普及により、能動的に情報を求めたり発信することが可能になり、国民の知る力が一部で成長し始めました。
でもそこに、国が先手をうってきました。
ACTA(模倣品・海賊版拡散防止条約)が2012年9月6日に衆議院本会議で可決されたのをご存知でしょうか?
これは、一見すると単なるインターネット上の著作権保護に関する条約のようですが、よくよく見るとインターネット検閲の強化です。
これまでインターネット上の発言に関するトラブルは、民事訴訟が起こされて初めて規制の対象となっていました。
それがACTAでは、政府が問題があるとみなしただけで、即規制の対象となってしまいます。
まさにインターネット上の言論統制ですよね。
政府(そして、政府に大きな影響が与えられる大手企業など)にとって不都合な発言をするブログなどが、一方的に閉鎖される可能性があります。
マスコミから信頼のおける情報が手に入らない日本で、インターネットという手段が注目されてきた矢先のことです。
このACTAに対して、EUでは空前の規模のデモが起き、ACTAへの参加は圧倒的多数で否決されたそうです。もちろん日本のマスコミは、EUでそんな歴史的な規模のデモが起きたことなんて、一切報道しませんでした。
(ヨーロッパでのデモの様子です)
日本の国会議員のほとんどは、ACTAの内容についてよく知らず、審議なしで可決されてしまいました。
国民の一部の若手議員が、寸前にその危険性に気づき、ほかの議員にその危険性を知らせるために走り回ったようですが、間に合わなかったようです。
斉藤やすのり議員がIWJのインタビューに答えて、ACTAの危険性を説明してくれています。
一方で、毎週金曜日の官邸前のデモ。
国民の意識革命の象徴のようなムーブメントだなぁと思って見ていました。
ですがここでも!
東京都が日比谷公園での集会に対する規制を強め、デモの出発点として使えなかったとか。
この記事の内容は少々反原連側にかたよってはいますが、ちょっと気になる動きです。
都側は、集会の規模が日比谷公園の収容能力を超えていることを一つの理由として挙げていますが、だとしたら大規模なデモにたいする抑止力にはなります。
ネット検閲だけでなく、集会の自由まで規制されていくのでしょうか。
だとしたらまるで日本国内で革命が起きるのを恐れているかのような、規制の敷き方ですね。
このブログを立ち上げた理由の一つとして
カネ至上主義の権化のようなイメージを与えがちな経済学のイメージを変え、
社会活動を論理的に分析するツールとして再認識してほしいという思いがありました。
経済学は人間社会を分析する強力なツールです。
私は経済学を、社会を分析する「物理学」だと思っています。
あらゆる感情や価値観、先入観を排除し、個々人の意思決定の相互作用を積み上げることで、社会の仕組みを明らかにし、社会全体でどのような結末が生じ得るか予測できます。
経済学は「何が良いか」の価値判断をしません。
これは、分析のツールに過ぎないからです。
経済学が明らかにした、社会の仕組み、予測などをみて、我々が、我々の目的に応じて、何が良いか、何が問題かの「価値判断(value judgment)」を行います。
例えば、経済学は「自由貿易」を支持していると思われています。
それは実は誤解です。
正確には、経済学が示した1つの結論を基に、「自由貿易」を支持する経済学者や政治家がいるというだけの事です。価値判断をしているのは、あくまで人間なのです。
それでは、経済学は「自由貿易」について、いったい何を明らかにしているのでしょうか?
簡単な例を使用して説明してみます(これは、大学1年生の経済学の教科書にもある例です)
2つの国、AとBがあります。
A国は比較的、農業よりも工業の生産性が高いと仮定します。
B国は逆に、どちらかというと工業よりも農業の方が得意だとします。
分析過程はここでは省略して、結論を先に述べますと、この2国が自由貿易を行った場合、Aが工業製品のみを生産することになり、国内需要向けの農産物は全てBから輸入することになります。Bは農業製品のみを生産するようになり、国内需要向けの工業製品は全てAから輸入するようになります。そして、両国の富(所得)は最大化されます。
この結論を受けて、「富(所得)の最大化」を目的とする経済学者と政治家は、自由貿易を支持します。
あなたの価値判断はどうでしょうか?
自由貿易を支持しますか?
私がこのトピックを取り上げたのは、TPP導入の問題に触れたかったためです。
TPPに加盟すると、加盟国間のあらゆる貿易に関わる障壁が取り除かれ、「自由貿易」が実現します。
TPPへの加盟を推している政治家たちは、その理由として、TPP加盟で、日本の経済は良くなる、所得が増える、GDPが上がるなどを挙げています。
それは、自動車産業などの工業製品の輸出から得られる所得の増加が予想ためです。
農業は打撃を受けると予想されています。
つまり、先ほどの例でいくと、日本はA国です。
工業が強く、農業が比較的弱い国です。
自由貿易が実現すると、即ちTPPに加盟すると、自動車産業をはじめとした工業製品はどんどん輸出されていくことになるでしょう。その結果、国民の所得は増大するでしょう。しかし、日本から農業は消え去ります。私達が食べる殆ど全ての農産物は、輸入品となるのです。
これが経済学の出している予測です。
所得の増加のみを見れば、自由貿易は素晴らしいかもしれません。
ですが、経済学は同時に、その代償として農業が日本から消えてしまうこと、私達が口にする農産物は全て輸入品になってしまうことも同時に明らかにしているのです。
この結果を見て、どのような選択をすべきかを決めるのは人間です。
所得の増大は嬉しいことですが、あなたはその代償を受け入れる覚悟はありますか?
輸入農産物には様々な問題があります。
検疫を通過するために大量の農薬がふりかけらる、ポスト・ハーベストの問題。
遺伝子組み換え製品も多々あることも予想されます。
それが、私達が食べる唯一の農産物となっていくのです。
安価な農産物が、どんどん海外から入ってくる中、消費税増税などで経済的に疲弊している国民が、あえて割高な農産物を選択して、市場の力に対抗するだけの意識の高さはあるでしょうか。
食料自給率を上げようなんて話、どっかになくなってしまいましたね。
TPPと農業の話は頻繁に取り上げられますが、TPP加盟でもう1つ心配すべきなのは医療です。
アメリカの高額医療が日本に入ってくると、日本の国民健康保険が破たんする恐れがでてきます。
そうなると、アメリカの健康保険会社がビジネスチャンスをみつけて、日本の市場に参入してくるでしょう。
最終的に、日本もアメリカのように、低所得者が医療サービスを受けることができない社会になる可能性があります。
TPPはほんとうに、多分野にわたって、国民の命に関わってくる問題なんですね。
日本と他国の間にある、様々な経済障壁を取り除くことで、他国が抱える様々な問題が日本にも起きてくることが考えられます。良い面ばかり見て喜ぶことはできません。
経済学は未来予想図を示しました。
価値判断し、選択するのは私達です。
もうすぐ、選挙ですね。
TPPの問題、真剣に考えて選挙にのぞみたいものです。
私がこれまでに発表した4本の論文で扱ったのは、アメリカのビール業界あるいはタバコ業界でした。
というお話をすると、たいていの人はビール(を飲むの)が大好きなわけですから、すぐに私にビール業界の話を求めてきたりするのですが
残念なことに、私はみなさんが興味を持てるような、ビール業界の話を持ち合わせていません。ビール業界についてはおろか、私自身、飲まない人間なので、味についてもよく知りません。
では、この風変わりな経済学者はアメリカのビール業界(とタバコ業界)を題材に、ビール業界(タバコ業界)のことをよく知りもせず、何を研究したのか???
それは、需要と供給についてです。
しかも極端に一般化された需要と供給です
これらの業界の需要も供給も、ちょっと特殊な性質がありますが、ここでは需要の話をしたいと思います。
タバコの健康被害については、アメリカでは日本とは比べ物にならないくらい真剣に考えられています(アルコール中毒も、大問題ですね)。
そして、医療費の増大が深刻化するアメリカでは、非喫煙者よりも病気になる確率の高い喫煙者の医療費を、どうしてみんなで負担してやらなきゃいけないのか?たばこ税をもっと上げて、医療費にまわすべきじゃないのか、という議論がされたりしています。
アメリカは自己責任の国ですからね。
ここで、自己責任の度合いを考えるとき、喫煙者がRational(理性的)に行動ができていたか、というのが重要になってきます。
つまり、喫煙者は確信犯であり、自己責任を負える状態にあったかどうかということです。
自分の消費行動の結果、将来の医療負担が増大することを、理性的に評価できる状態にあったかどうか。
もし理性的な行動であったらなら、自分の医療費は自分で負担しなさい、的な発想です(あるいは、たばこ税増税されても文句なしね、という発想です)
そもそも、健康被害があることが明らかな嗜好品を消費し続ける・・・というのは非喫煙者から見て、とてもとても「最適な消費選択」をしているようには見えません。
彼らは理性的な判断ができていないのか?なぜ、できないのか?
ビールと、とりわけタバコの消費行動についての最大の特徴は
これらの消費には「習慣性(中毒性)」があるということです
一度タバコを吸い始めてしまうと、中毒になり、またタバコを吸いたくなる
止めたいのに止められない・・・
つまり、中毒になってしまうと、自分の本意に反して喫煙を続けてしまう可能性があるわけです。
そこで喫煙者は理性的ではない!という主張が以前は一般的でした
タバコ中毒のかわいそうな喫煙者をみんなで救済しよう!的な意見です
これに対して、大変な物議を巻き起こした論文が発表されました
ゲイリー・ベッカー氏の「Rational Addiction Model(理性的中毒モデル)」で、同氏はノーベル経済学賞も受賞しています。
彼が提案した消費選択モデルは、中毒状態にある喫煙者が、遠い将来(喫煙の結果)病気になるかもしれない可能性を考慮しつつ、現在を含めた一生の幸福を最大化しようとすると、一連の最適な選択は「喫煙し続ける」ことになる、と証明したんです。
なぜ、そうなっちゃうのか?彼のモデルのカラクリは以下の通りです(これはあくまで、彼のモデルの中でこのように仮定されているというだけであって、現実がそうだというものではありません)
1.中毒で嗜好が変化する。
過去に喫煙経験があると、タバコは一層おいしくなります。吸えば吸うほど、中毒になればなるほど、喫煙から得られる満足度は上昇していきます。
2.喫煙で病気にならない可能性もある
喫煙することで、罹患率は上昇しますが、あくまで確率です。結局肺がんになることなく、100歳過ぎまで生きる可能性があります。この、病気にならない可能性が、喫煙者を多少楽観的にします
3.病気になるのは遠い将来のこと
喫煙者は、将来病気になるかもしれないことを考えつつ、自分の一生の幸福を最大化するため、今日タバコを吸うか吸わないかを決めます。遠い将来になるほど、病気になる確率は高くなりますが、将来の話は現実味も薄くなってしまいます。今日タバコを吸ったことで明日医療費が10万円高くなると思うと真剣に考えますが、30年後に10万円高くなるといわれると、それほど切迫した気分にはならないでしょう。その結果遠い将来の「費用」は軽く見積もられてしまいます。(これは、企業の長期的投資の現在価値を評価するときと、同じ理屈です)
中毒による嗜好の変化で、喫煙から得られる満足度は将来にわたって一層増加していく一方で、将来発生が見込まれる医療費負担額は、遠い将来であるために軽く見積もられる・・・
これらの「仮定」を丁寧に数式のモデルに組み込み、一生の幸福を最大化する、一生分の毎日の消費行動を選択させ、得られた結果が「喫煙を継続する」という選択だったというわけです。
彼のモデルによると、喫煙者の嗜好は中毒症状により変化してはいますが、それでも健康被害の可能性をしっかり考えつつ、自分の幸福を最大化した結果が「喫煙を継続する」ことだったわけですから、その点については「理性的」な選択であります。
(経済学者の定義する「理性的」と一般の人が日常で使う「理性的」の定義には、ズレがあると思います)
彼のモデルは、たばこ税を増税して喫煙者に医療費を少しでも多く負担させようという意見を後押ししました。
私の論文の目的の一つは、彼の主張が実際のデータで証明できるかということでした。
そして、かれの主張を裏付ける結果が得られました。
それでも、そもそも一消費者に一生分の消費行動を考慮できる能力を仮定していいのか、消費者ってそこまで頭がよくていいのか・・・・議論の余地はたくさんあるモデルです。
「理性的な中毒」っていうパラドックスなネーミングは大好きですけど・・・。
市場に溢れる商品コントロールしているのは、結局のところ需要です。需要のないところに、商品を出しても売ることはできませんから、消費者をないがしろにした商品を作る生産者は生き残ることができません。
だから、健康に悪影響がある商品を作ったり、環境破壊をしたり・・・悪事を働く生産者を私たちは単純に責めることはできません。
なぜなら、生産者は消費者の写し鏡のような存在だからです。私たちの消費行動が、生産者の物づくりの在り方を決定します。つまり、消費者が行動を改めなければ、生産者も変わることはないわけです。
では、消費者のどのようにして消費行動を決定するか
単純に言うと消費者は
所得、
嗜好、
気分、
愛情、
商品に関する情報や予測(期待値)、
その他ありとあらゆる
消費者が今現在利用可能な情報
などなど・・
これらの制約の下で
自身の幸福状態を最大化するように商品を選択します。
(Science of Choice としての経済学 2にもう少し詳しく書いてあります)
これは、完全に「Rational(理性的)」な選択で、同じ条件下であれば何度試しても、同じ選択をします。
Rationalな消費者の選択に間違いはない・・・これは経済学における最大の「仮定」の一つです(この点については、高度なレベルで議論されていて、心理学との融合も起きつつある分野です。ここでは議論しません^^;)
つまり、私たちは、自分の幸福を最大化するという点において、常に最適!ベスト!な選択をしているわけです。
でも、商品を購入後、
「あ、これ買わなきゃよかった!」とか、「失敗した!」っていうこと、よくありますよね。
どういうことでしょうか?
これは多くの場合、商品を購入する前と後で、手持ちの情報が異なっているためにおきます。
たいてい商品購入後のほうが、その商品に関する情報が増えますから、購入後の情報をもとに考え直すと、もっと別な選択ができたのに!と後悔してしまうわけです。
でも、間違った選択をしてしまった自分を責めないでください。
おそらくあなたは、購入時には可能な限り最善の選択をした筈です。
その瞬間では「ベスト」の選択を行ったはずなのです。
それにしても、消費行動における「情報」の果たす役割というのは、ほんとうにほんとうに大きいのです。
どうして世の中に、消費者を苦しめる製品が蔓延してしまうのか?
なぜ、多くの企業は環境負荷を考えない、製品づくりをしてしまうのか?
そして、なぜ消費者はそんな(消費者を苦しめる)生産者を育ててしまうか?
なぜ、消費者は、商品を正しく評価し、正しい消費行動をとることができないのか?
それは消費者が「正しい情報」をもっていないから、の一言に尽きます
当たり前の結論ですよね。
経済学って、そんな当たり前のことを語る学問なの?って思われる方もいるかもしれません。
でも、当たり前のことを、論理的に正しいと証明することほど、難しいことってないと思うのです。(経済学者は、こんなことを証明するためだけに、たいへん高度な数学を使うんです。)
今回の結論にしても、「消費者が正しい情報をもつ」ことが、当たり前のこととは分かっていても、
どれだけ根本的な問題であるかを理解している人は少ないと思います。
だから、
「もちろん、消費者が情報を持つのは大切だよ。でも、それには時間がかかるから・・・・」
「でも、まず法の整備を進めなきゃ」
「企業を訴えましょう」
など、良く聞かれます。消費者の問題が二の次になっていますよね。
大切なのは知っている、でもそれが問題の本質であることを、実感できなければ、その他のことに気を囚われてしまいます。
でも、経済モデルは、消費者の変革なくして問題の解決はあり得ないとはっきり見せてくれるのです。
法律は新たな歪みを市場にもたらす可能性がありますし、企業を糾弾することは気休めでしかありません。
まずは、消費者が変わりましょう。
「選択する」ことの意識を高めましょう。
日々の「選択」が正しいことへの「支援」であり「一票」となります。